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    応 援 團 
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応援団発足当時
 本校が福岡県立嘉穂高校と改称されたのが昭和二十三年。その後昭和二十八年から嘉穂東高校との野球定期戦が始まりました。その時には嘉穂東高校には応援団があり、その対抗上、有志が集まり応援を始めたというのが資料上では、最初のようです。応援団が正式に発足したのは昭和二十九年の秋。当初は団旗もなく、その時学校に頼んで作ってもらったようです。団旗の大きさは二メートル位で旗棹は竹槍。ボンカンも何もついていない竹だけのもので、有志による盛り上がりでできた応援団だったようです。当時の服装は、学生服に下駄履きスタイル。輿に乗ったときには三三七拍子、東海道五十三次などを、日の丸のついた扇子を用いて応援をするという形態をとっていたようです。  
 その後、卒業生が慶応、早稲田、明治など多くの大学に入学し、帰省した折りにそれぞれが教え、様々な学校のスタイルを取り入れながら応援の形ができたようです。また、応援団の服装も変わってきました。学生服から袴スタイルに変わり、昭和三十四年に今現在に受け継がれているクリーム色のユニホームに変わっていきました。 初披露は運動会の時で、この時には午前中袴で応援をして、午後がユニホームだったようです。ユニホームは飯塚バスセンターの近くの「ヨシナガ染物屋」さんで作ったということです。ユニホームに変わったきっかけは、小倉球場(現北九州市民球場)で野球部の県北部予選、対小倉高校戦を袴スタイルで応援しているときに、その当時のある嘉穂高校のOBに「お前たちはまだそんな古い格好でしょうとか、そりゃ時代遅れだ。」と笑われ、それがきっかけでユニホームに変わったという話もあります。

応援団の活動
 応援団の引継は、伝統的に二年生の秋。秋も暮れんとする夕闇迫る穂波河原に新応援団は誕生します。淡き秋の夕陽が竜王の背に没するまで発声練習を繰り返し、十数種の応援の型と校歌を含め四つの歌を後輩に伝承し、リーダーとしての資質を高めていくために、歴代の応援団は、練習を重ねてきました。各部活動の秋季新人戦の応援で初舞台を終え、勝盛公園の桜花もほころぶ四月を迎えます。応援団の一大行事といえる新入生指導。この日のために、応援団は、心身を鍛えに鍛え、嘉穂高校とは何たるか、校訓とは何たるか、嘉穂魂とは何たるかを念頭におき、練習を重ねながら、「質実剛健」「自主創造」の校訓のもと、清き心をもって新入生指導にあたってきました。しかしながら、応援団員の気持ちは毎年すぐには新入生の心には届きません。心の葛藤と戦いつつも心を鬼にし熱き思いで新入生に接する中で、その気持ちは通じ、現在は英彦山で行われている一年生の宿泊研修を通して、先輩後輩の絆は深まり嘉穂高校生の仲間として活動していくことになるのです。六月初め新入生指導の成果を試すべく、嘉穂東高校との春季定期戦が行われます。灼熱の炎天下の中、不屈の嘉穂魂を、選手スタンド一丸となり毎年練習の成果を見せています。この定期戦は昭和四十一年より、生徒会主催行事となり、全校応援の形をとるようになり、現在では筑豊の早慶戦といわれるほど活気を呈しています。
 春から夏に向けて、応援団は各部活動の応援に精を出します。大会日程を見ながらできる限り三年生の級友達の雄姿に力の限りの声援を送ってきました。その中で、柔道部、剣道部は、全国優勝を果たし、嘉穂の名声を全国に轟かせてくれました。野球部も、昭和五十四年、昭和五十五年と二年連続して夏の選手権県大会準優勝と、今一歩のところで甲子園出場はならなかったものの、選手の活躍は嘉穂高生の誇りでもあり、これからも本校部活動の健闘を応援団は心より願っています。
 秋、応援団としての最後のイベント大運動会が行われます。ここでは応援団の一年間の集大成といえる全校応援に臨みます。巨大な翠華を地に押し立てて、母校の部活動の功績を称え、これからのますますの発展を願い、大エールを送ります。大運動会が終わり、陽の光が西の彼方に沈む頃、三年男子の大宴ファイヤーストームが始まります。歌い、踊り、叫び息も止まらぬ嘉穂健児の勢いを見せながら、応援団としての任務を完了します。

 
 
 
    

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